「サマーウォーズ」私論
憂鬱な季節がやってきた。
夏が嫌いなわけではない。
むしろ暑さは大好きだ。
では何が苦手なのかと言えば
いわゆる「夏映画」が苦手なのだ。
今年は細田守監督の「竜とそばかすの姫」が公開されるためか「サマーウォーズ」が地上波のテレビで放送されるようだ。
思い浮かぶでしょ?
青い空・白い入道雲・制服着た美少女……
夏休みのティーンエイジャーを見込んだ映画。
中高年のノスタルジーに応える映画。
山や海の近くにある田舎がに美しく描かれ
少年少女の淡い恋愛と親戚やご近所さんとの交流が描かれる。
嫌なら見なければいいのだが、
ニュースサイトやTwitterのトレンドにとうしても入ってくので
避けようと思っても目に入ってしまう。
過去に見た「夏映画」を思い出して憂鬱な気分になり
うっかりテレビで見てしまうと、予想通りの内容で
また憂鬱になってしまう。
なんでこんなに苦手なのか。
アニメーション映画のおける田舎の描写がどうしても苦手だから。
この映画が大好きな方もいるだろうから、少し語調を変えます。
私は日本でもっとも鄙びた田舎の出身です。
田舎の悪いところも良いところも知り尽くしています。
そんな田舎を美化して表現されるとえも言われぬ不快感が腹の底から持ち上がってくるんですよ。
以下にその理由を挙げたいと思います。
①なぜ「夏」なのか?
「となりのトトロ」「思い出ぽろぽろ」そして「サマーウォーズ」
みんな夏の田舎が舞台です。
古い民家が残っていて、明るく風通しの良い家からは青い空や白い雲が見えますね。
確かに夏の田舎はそうですよ。
美しくて清々しいです。
広くて爽やかです。
だから映画で夏が描かれるのでしょう。
でも疑問に思ったことありませんか?
他の季節はどうだろうかと。
実は田舎の家って夏以外は地獄なんですよ。
特に晩秋から春の終わりくらいまでは本当に辛いんです。
なぜかと言うとそのひどい暗さ。
田舎にある昔ながらの家には「サマーウォーズ」の座敷を見ればわかるように壁があまりありません。
では春秋冬はどうするかと言うと、雨戸を締め切って壁がわりにするんです。
もちろん光は入ってきません。
人間は光に当たらないとうつ状態になりやすいのはよく知られています。
夏以外の田舎は、陰鬱な暮らしを強いられるのですよ。
②雇用の不利さ
東京のような大都市と違って田舎は仕事が少ないです。
地方大学の学生が持つ共通の悩みが、就職先の少なさですね。
そのため夜行バスで東京や大阪までいって面接を受けるとまた夜行バスで帰ってくる学生はたくさんいます。
大変な金銭的負担です。
「サマーウォーズ」の中には公務員がたくさん出てきますね。
警察官・消防署員・自衛官など。
この点を指摘して「体制的」と言い表した評論家がいましたが、そうではありません。
田舎は職が少ないのです。
若者が安定した収入と生活を得て、家庭を持とうと思ったら公務員一択です。
身分保証の強さと社会的な信頼の点から言って、中小企業はよりずっと安定した人生が送れます。
映画「空の青さを知る人よ」でも、両親を亡くした高校生の女の子は妹を育てるために市役所に就職していました。
特に雇用の調整弁になりやすい女性の就職先としては、正規の公務員が理想でしょう。
③重い人間関係
この種類の映画では人とのつながりや助け合いが賞賛されるのですが、
そのためには強い共同体を維持しなければなりません。
要するに血族団体です。
そのためには冠婚葬祭が必要です。
あの手の儀礼は決して非合理的なものではなく、共同体を維持するためにみなで作業をして一体感を高める明確で合理的な目的があるのですよ。
これは日本だけではなく、アメリカやヨーロッパでも「配偶者の親戚と過ごすクリスマスが苦痛」と思ってる人は多いのではないでしょうか。
共同体はいざというさい助け合える代わりに、自分の時間やお金をある程度は差し出さなければなりません。
社会保障のために税金を払うのと同じです。
自己主張を抑えて我慢もしなければなりません。
特に女性は親戚たちの集まりで「おさんど」「おさんどん」と呼ばれる無償の労働をやらざるを得ず
それで気の病になってしまう人も多いようです。
これに耐えるくらいなら、都市で孤独な生活をした方が良いと考える人も多いでしょう。
定期的に都市部への流入者が増える現実がそれを裏付けています。
https://www.mlit.go.jp/common/001042017.pdf
④軽視されるはぐれ者
「簡単に言えば 大じいちゃんの妾の子」
侘助のことです。
この時代に妾なんて言葉を聞くとは思わなかったですが、現代風に言えば「非嫡出子」ですね。
婚姻していない男女の間に生まれた子供のことで、長いこと相続の分配で差別されてきましたが、
2013年になってやっと、「非嫡出子」の相続について定めた民法に対して違憲判決が出ました。
「サマーウォーズ」が2009年の映画ですから、このことに関係者が気づかなかったとは思えません。
しかもこの非嫡出子は愚かな技術者として描かれます。
ちょっと差別に鈍感じゃないでしょうか。
⑤政界のフィクサー
頼りがいのあるおばあちゃんとして描かれる陣内栄。
日本中が大パニックになっている時、あちこちに電話をかけています。
国土交通省・消防庁・警視総監
どれも関係省庁や行政のトップですね。
じつはこれ、とんでもない問題行為なんですよ。
行政は法律や条例で定められた行為を実行するための組織で、国会議員や都道府県知事、官僚が責任者ですね。
問題があれば議会や国会で追及され、責任を取ります。
ところがこのおばあちゃんは、国民から選ばれた政治家でもなく、権限と責任が法律で明確に定められた官僚でもありません。
ただの民間人です。
こういう人物が個人的人脈で公的な権力にアクセスできてしまうのは大問題なんですよ。
公的な立場の人間なら法律の縛りや議会の監視があります。
ところが私的な人間にはそれがない。
やり放題です。
憲法上の制約も法律による規制もない。
飲食店に銀行経由で圧力をかけ、大バッシングを受けた大臣がいましたが、ああいう権力の暴走を止められるのは
「選挙で選ばれた国会議員で大臣」だからです。
フィクサーはどんな暴走をしても誰も止められません。
だいだい知り合いに警視総監がいたからってその人を「すごい!」なんて思いますか?
なにか感覚がずれてますよ。
一番の問題は、消費される田舎と田舎の人々。
「サマーウォーズ」に出てくる田舎はおそらく群馬県か長野県でしょう。
「山も問屋も工場も 何ひとつ きれいさっぱり残ってないんだから」と言うセリフが示すように
今は雇用も厳しいのでしょう。
そのなかであれほど大きな家屋敷を維持していくのは大変でしょう。
田舎で暮らしている人々にはきつい負担があるはずです。
しかし都市部で生活している親戚たちはそれを負うことをせず、最も過ごしやすい夏だけ田舎にやってきてはバイキングのように田舎の社会資本を浪費して帰って行きます。
自分の住んでいる土地や街に対して、何も背負っていない人間が信頼できるでしょうか。
税金逃れのために所在地を次々と変える企業。
落ち目の街をすてて次々と住む場所を変える人間。
税金が安くて住み良い街や国は、そこの住人が汗と血を流して創り上げたのですよ。
みんなが自分のコミュニティになんの貢献もせず、土地を渡り歩いていたら世界中いまだに荒野でしょう。
私もいま住む街に大きな貢献はできていません。
何かしら消費する側ではなく、貢献できる側に回りたいと考えています。
パンチラとシビリアン・コントロール
歴史小説で最も愛されている分野は攻城戦モノだろう。
防戦のためにあらゆるテクノロジーを駆使する防御側と、攻撃側の人間の心理は小説の題物にうってつけだ。
攻撃側の高揚、焦燥、怠惰、士気の低下やモラルの乱れ。
防御側の恐怖、裏切り、味方への猜疑心、衛生状態の悪化。
そして双方に共通する要素が兵站が尽きることへの恐怖心だ。
ようするに飢えである。
戦争で一番大事なものは食べ物だ。
戦闘機やら戦車の話は二の次だ。
世界史において攻城戦といえば、1453年に落城した東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル、1615年に落城した大坂城が抜きん出ている。
特に大城坂は「コンスタンティノースースープル以東最大の城塞」とよばれていた。
司馬遼太郎「城塞」と、塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」が名作として版を重ねられ続けている。
籠城戦の中でも最も凄惨だったものは第二時世界大戦中のレニングラード包囲戦だろう。
悲惨だった独ソ戦の中でも飛び抜けて死傷者が多かったことでも知られている。
ソ連領深く進攻したドイツ軍は、ネヴァ川の河口にあるレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)を包囲し、兵糧攻めを開始した。
補給路を断たれたレニングラード市民はすぐに飢饉に落ち込み、60万人から100万人の人間が餓死したと言われている。
カニバリズムまで起こったらしい。
大坂城やコンスタンティノースープルと違って、スターリングラードは落ちなかった。
欧州中央部で台頭した大権力がロシア遠征をするとことごとく失敗するようだ。
極寒のロシア的、攻撃側の兵站に大きい支障害追し、ナポレオン1世のロシア遠征も失敗した。
歴史は今もたくさんの人々の創作意欲を刺激し続けて、アニメやゲームの世界でも新しい創作物が作り続けられている。
最近発売されたゲームでは「戦場のヴァルキュリア4」はどうやら独ソ戦がモデルのようにみえる。
私が家庭用ゲームの世界に戻ってきて、最初にプレイした作品がPS4版の初代「戦場のヴァルキュリア」だった。
どんなゲームかと言えば、4つの兵科に分かれた兵士を将棋の駒のように動かして、敵の陣地を先に占領した方が勝ちと言うシンプルなものだ。
しかしゲーム性は非常に高く、当時大変な人気になったらしい。
ただし、世界観や脚本、キャラクターデザインは良くも悪くも典型的な「和ゲー」で、リアリティーなどまったくない。
それでも根強いファンがいて、続編が創られ続けている。
今回の作品はシリーズ連番で第4作目。
プレイ時間は短めらしいので、久しぶりにテレビゲームをやってみることにした。
(以下、「戦場のヴァルキュリア4」の脚本のネタバレとなります)
舞台は架空のヨーロッパ。
ヨーロッパは実在するのに「架空のヨーロッパ」ってなんだよ?
と、つっこみたくなりますが、現実のヨーロッパをゲーム上で再現しようとすると大変なので、よく使われる手法です。
平和な連邦(たぶんフランスやイギリス)に、悪の帝国(たぶんソ連)が鉱物資源(たぶん石油)を求めて攻めてきます。
連邦の若者たち(おしゃれな大学生風)は祖国を救うために、義勇兵に志願して帝国に戦いを挑みます。
時代は20世紀の初めくらいでしょうか。
戦車や装甲車はありますが、戦闘機はないようです。
でも潜水艦や無線はあります。
時代考証はメチャクチャですが、そこに突っ込むのは野暮です。
なんたってこのシリーズは、そのハチャメチャぶりを楽しむゲームだからです。
劣勢に追い込まれた連邦側は、帝国の首都を急襲する「ノーザンクロス作戦」を立案、極寒の大地を東へ東へ進軍します。
どう考えてもナポレオン1世のロシア遠征か、ドイツのバルバロッサ作戦なのですが、兵士たちは緊張感ゼロ。
大学のサークル活動にしか見えません。
兵士たちは、ハタチ前後の若い男女たち。でっかいバズーカ砲や擲弾砲を担いで戦場を走り回っています。
それどころか、ロングヘアーにミニスカート、ニーハイの美少女がライフル銃を構えて、極寒の戦場を駆け回るものですから、リアリティーもへったくれもありません。
それでもかまいません。
だってこういう現実感の無さを楽しむのがこのゲームだからです。
このゲームには「ミネルバ」と言う名前の若い女性士官が出てきます(士官は軍隊組織のエリート)。
このキャラクター、「さあ! わたしについて来い!」とかけ声を上げると、部下を引き連れ、ミニスカートでパンチラしながら戦場を走り回ってくれます。
それだけでも頭が痛くなってくるのですが、このキャラクター、体力が低く、あっさり敵の榴弾に吹き飛ばされてひっくり返ると、股をおっぴろげてパンツ丸出しになりながら「む、無念だ……」なんて言ってくれます。
ここまでくると、製作者側がギャグでやってるんじゃないかと思えてきますが、それでもいいんです。
これはそういうゲームですから。
ゲームを進めていくと「ノーザンクロス作戦」の真相が明らかになります。
この作戦、実は陽動で、本当は海上ルートから、ビンランド合衆国(どう考えてもアメリカ)で開発された新型爆弾(どう考えても原爆)を帝国の首都シュバルツグラード(どう考えてもモスクワ)まで運び、街ごと爆破してしまおうという作戦だったのです。
民間人も女子供も殺してしまいますね。
一応主人公たちが悩む姿が描かれますが、「死んでいった仲間たちの為にも、戦争を終わらせて平和な世界を作るためにもこの作戦は必要なんだ」とかなんとか言いながら正統化してしまいます。
まるで、アメリカの右翼が「日本への原爆投下は太平洋戦争を早期に終わらせるため必要だった」と主張している様子にそっくりですね。
このあたりからだんだんついていけなくなりましたが、作戦実行直前で両国政府の間で和平条約が結ばれ戦争が終わります。
政治家や官僚が軍部の大量殺戮を防いだ形になりますね。
それでも先程のミネルバちゃん。
「爆弾を爆発させろ―! 仲間の死を無駄にするのかー!」
とわめいてくれます。
ここらで完全に白けてしまいました。
製作者様 岳彦は、もうすっかり疲れ切ってしまって、このゲームを続けられません。
何卒 お許し下さい。
いや、本当にシビリアンコントロールって大事です。
ちなみにこのゲームのをやり終えた後に観た映画「レニングラード 900日の包囲戦」は、レニングラード市民が飢え死にしていく様を詳細に表現しており、さっきまでやっていたゲームとの差に眩暈がしたのですが、もちろん比較する私が悪いんです。
いろいろ書きましたが、この「戦場のヴァルキュリア4」、ゲーム性は非常に高いです。
すでにやり込んだプレイ動画が上がり始めています。
ただ脚本や世界観が極端にアレなだけです。
だいたい、リアリティーを求めるのならそれに相応しいゲームがたくさんあるのですから、パッケージの美少女に釣られてこれを買ってしまった私の完全な敗北なのですよ。本当にすいません。
ペルソナ5と民主主義 -オルテガの視た未来-
ちょうど一年ほど前、私は小説を書いていた。
それに飽くと、車に乗って、街中の本屋をさまよった。
ある本屋の中には、小さいながらもCDコーナーがまだ置かれ、
その中の、さらに小さなスペースが、家庭用テレビゲーム売り場になっていた。
音楽もテレビゲームもダウンロード販売の時代である。
実店舗めぐりが好きな私には、そんな極少の売り場でさえ僥倖だった。
ちょうど新作ゲームの発売日だったらしく、モニターにはティーザーが流れ、パッケージが一つだけ置かれている。
確か8,000円ほどだったろうか、財布の中に珍しく10,000円札が入っていた私は、何気なしにそのゲームを買った。
「ペルソナ5」
という名のゲームだ。
なんでもシリーズ30周年記念だそうだ。
私は10年以上も家庭用ゲームをしていなかった。
引越しをして新しい仕事慣れるのに必死だったからだ。
ブルーレイプレイヤー代わりに買ったプレイステーション4をクローゼットから引っ張り出して、プレイを始めた。
止まらなくなった。
ちょうどシルバーウィークの頃だっただろうか。気が付くと10時間くらいたっていた。
このままだと、生活の差しさわりが出ると思った私は、セーブデータだけ残して、ゲームをしまっておいた。
そのくらい中毒性が高いゲームだった。
テレビゲームというのは極めて簡単な遊びだ。
その原理原則はゲーム創成期から変わっていない。
グラフィックや音楽、操作性といった装飾品をはぎ取れば、昭和のパチンコにも似た単純な仕組みが現れてくる。
要するに、ゲームというのはプレイヤーに以下の行動を擦り込むことにある。
快楽 → 負荷 → 緊張 → 報酬
これの繰り返しである。
グラフィックや音楽に惹かれ(快楽) → 試行錯誤しながらゲームを進め(負荷) → 戦闘や競争のスリルがあり(緊張) → レベルアップやトロフィーコンプがある(報酬)
これは開発に数年かかる据え置き型ゲームや、昨今、社会問題化しつつあるコンプガチャなども変わりはない。
おそらく、薬物依存や万引き依存とも変わりはないだろう。
ゲームは心理学の範疇なのだ。
痛い「クリエーター」が言うように、クリエイティブがどうのという話ではないし、頭の悪い学者が主張するように、脳ミソの話でもない。
今年、ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーが、経済学者というよりも心理学者だったことは、巨大産業化したゲーム業界のあり様と無関係ではないだろう。
- 作者: リチャード・セイラー,篠原勝
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しかし私が「ペルソナ5」で注目したのは別の点だ。
脚本である。
ペルソナ5はRPGだ。
要するに、悪いドラゴンをやっつけ、理想的な配偶者を得て、英雄として帰還する物語。
この人間の深層心理に染みついたひな型が世界中の神話や伝説に反映されていることは、賢明な読者諸氏に説明する必要もないだろう。
問題は何を「悪いドラゴン」とするかである。
それは時代の流れと社会の変遷を象徴する。
身近な「悪いドラゴン」は、セクハラ教師であり、盗作芸術家であり、ブラック企業の経営者であり、悪徳政治家であろう。
場合によっては、自分の分身であったり、気まぐれな自然神だったりする。
「ペルソナ5」において「悪いドラゴン」は、『大衆』である。
大衆は、民主主義が制度化され、情報伝達技術が庶民のレベルまで広がったことによって起きた現象の名称である。
大衆の発生は20世紀最大の事件かもしれない。
- 作者: オルテガ・イガセット,Ortega y Gasset,神吉敬三
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1929年にスペイン語で書かれたこの書物は、
「19世紀はマルクスの『資本論』によって、20世紀はオルテガの『大衆の反逆』によって代表される」
とまで評された歴史的名著として、いまでも世界中で読まれ続けている。
「ペルソナ5」の主人公たちは平凡な日常を送る若者たちだ。
彼らは、大衆によって持ち上げられ、大衆によって叩き落され、最後に大衆の象徴を破壊して、日常に帰還する。
これは、見事に神話のひな型をなぞった脚本であり、有史以来人類が紡ぎ続けてきた物語と寸分たりとも異ならない。
またこの事実はこの作品の価値を全く毀損しない。
ひな形どおりの作品を魅力的に仕上げるのは極めて難しい。
ひな形どおりの作品が嘲りを受けたならば、それは作者の力量不足が原因に他ならない。
本、新聞、テレビ、インターネットの順に、情報伝達技術は進歩を続けてきた。
それにともない大衆の発生場所も、路上からお茶の間、そしてネットの海へと変わっていった。
しかし大衆の本質は、発生場所にあるわけでも、個体としての人間の資質にあるわけでもない。
集合無意識としての大衆は、物理的な形をとる必要もなければ、大衆人という自然人がいるわけでもないからだ。
その大衆が、選挙という方法によって、強制力を持った権力に形を変える。
これが民主主義というシステムだ。
ちょうど今、衆議院選挙の真っ最中だ。
選挙を行う方は大衆をどうあやつるか腐心し、大衆の一部たる国民たちは、自分の意識の一部が、強大な権力になることも知らずに投票するのだろう。
新聞を読むよりも、テレビゲームをやった方が物事の本質を突けるのかもしれない。
あ、ヒロインは真ちゃんだと思います。絶対。
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宮崎駿とスナイパー
映画監督のマイケル・ムーアが、スナイパーは卑怯だ、という趣旨の発言をして物議をかもしたことがある。
「アメリカン・スナイパー」を巡る議論のなかでのツイートだ。
卑怯というのは言い過ぎだが、スナイパーは人を殺す時の罪悪感が薄いのは確かだろう。
実際に、アメリカ軍の研究もある。
自分の手で直接人を殺すのと、遠くにいる人間を飛び道具で殺すのは明らかに事情が違うからだ。
- 作者: デーヴグロスマン,Dave Grossman,安原和見
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/05/01
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この本において、殺人の際の罪悪感と、殺す側と殺される側の距離に相関関係があることが明らかにされている。
要するに、罪悪感は近ければ強く、遠ければ薄い。
そんなスナイパーを創作物の中で魅力的に描くのは難しい。
世の中には、物陰に隠れて狙い撃ちするスナイパーを嫌う人もいるだろう。
だが例外もある。
それは、弱者が強者に対してスナイパーとして立ち向かう時だ。
小国が大国に対して、女性が男性に対して、少数派が多数派に対してスナイパーとして立ち向かうときは、たいへんに爽快だ。
インターネット上で神格化されているスナイパーにシモ・ヘイヘがいる。
1939年に起こった冬戦争の英雄だ。
大国ソ連の侵攻に対して、小国フィンランドは自国内の森林地帯にソ連軍を引き込みスナイパーやスキー部隊でさんざんに抵抗した。
創作の世界ではどうだろうか。
影待蛍太の漫画「GROUNDLESS : 1-隻眼の狙撃兵-」では、片目を潰され、夫を殺され、子供を取り上げられた女性がスナイパーとして活躍する。
弱き者が狙撃で強大な敵に立ち向かう、判官びいきの爽快感がある。
GROUNDLESS : 1?隻眼の狙撃兵? (アクションコミックス)
- 作者: 影待蛍太
- 出版社/メーカー: 双葉社
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大西港一の漫画「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」では、フス戦争において家族を皆殺しにされ、自身も大怪我をした少女が、その頃に普及し始めた火縄銃(ピーシュチャラ)を使って、大きな騎士たちを撃ち殺している。
乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ : 1 乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ (アクションコミックス)
- 作者: 大西巷一
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2014/04/30
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最も知名度の高い作品なら、宮崎駿の映画「もののけ姫」が挙げられる。
誰もが一度は見たことがあるだろう。
あの作品の中で、たたら場の女たちはやはり火縄銃を使って、鎧兜に身を固めた侍相手に戦っている。
スナイピング(遠くから敵を打つ)という行為は弱者側が行えば、十分に痛快な戦術として描けるのだ。
反対に、強者が弱者に行えば、ただの弱い者イジメにしか見えないだろう。
それがよく分かっていた宮崎駿と、分からなかったクリント・イーストウッド。
その差はどこから来るのだろうか?
さよなら「新海誠」
明け方に仕事が終わり、家に帰って眠りについた。
目が覚めると昼過ぎで、いつものように本屋とレンタルビデオショップを回った。
どのレンタルビデオショップも経営は苦しいらしく、商品棚を減らしたり、別の商売を始めたりしている。その中で一番大きなスペースを取って陳列してあるのが、新海誠監督「君の名は。」だ。最近、レンタルが始まったらしい。
昼過ぎなのに、すべての商品が貸し出し中だった。特典付きブルーレイセットも1万円以上の値段で売られていた。かなり強気な値段設定だ。それだけ販売側は自信があるのだろう。
その後、2件のレンタルビデオショップを回ったが、どちらの店でも「君の名は。」は全てレンタル済みだった。よく考えれば、学校はもう夏休みなので、開店いちばんで子供たちが借りて行ったのかもしれない。すさまじい人気だ。
私が、初めて「新海誠」の作品に触れたのは、15年以上前だろうか。記憶は定かではない。
ある日、家電量販店を歩いていて足が止まった。モニターに映し出される店頭デモの映像に釘付けになったからだ。テンポの速い音楽とそれに連動する短いカット割りのムービー。
「イース2 エターナル」というテレビゲームのオープニングムービーだったと思う。
それから数年経って、いつものように、私は映画をVHSで観ていた。
ご存知の通り、映画の前には予告編がいくつか付いている。その中の1つに、『中学生のカップルが宇宙と地球に引き裂かれる』という内容のアニメが入っていた。なんでも、女の子のほうは宇宙軍に入ってパイロットになり、異星人と戦うらしい。
「また、美少女がロボットに乗る話か……」と私は思った。ただ、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」というキャッチコピーだけは憶えていた。
数日後、友人と映画の話をしている時に、「おい、『ほしのこえ』っていうアニメ知っているか? たった1人で造ったらしいぞ」と聞かされた。
たった1人で?
アニメとは、アニメーターが机を並べて、鉛筆でカリカリ書いていると思っていた私は驚愕した。その後、「ほしのこえ」を手に入れてきて見たはずだ。あまり憶えてはいない。ただ、「1人で造った」というのは間違いで、音楽と女性の声は知人の力を借りたらしい。
それから数年後、「雲の向こう、約束の場所」という映画を偶然見た。90分1本の本格的なアニメーション映画で、モノローグの美しさとカメラワークに惹かれた。内容はハードなSFだったと思う。音楽も素晴らしく、OSTをCDで買って繰り返し聞いたのを覚えている。
第3作目は「秒速5センチメートル」だった。DVDのパッケージに載っていた登場人物一覧には、私の本名と同じ名前があった。「秒速~」は1本約20分のアニメを3本繋いだ映画で、1本目のタイトルは「桜花抄」だった。
「抄」!
こんな漢字を使うアニメーション監督が今までいただろうか。たいていのアニメ監督は、オタクを厭いながらも自分もオタク、という人物だった。教養など微塵も感じさせない監督が多かった。
「秒速~」を観た。
魂を抜かれたような気がした。
理屈の上ではハッピーエンドだ。
だが、細密な美術と切ない音楽と、両者の絶妙な調和で、観客の心を破壊する映画だ。
なんという名前の監督だろうか、と思って、私はDVDのパッケージを見た。
「新海誠」
あの「ほしのこえ」や「雲の向こう、約束の場所」を作った人か!
それ以来、「新海誠」と「秒速5センチメートル」は私にとって絶対的な存在になった。インタビューを探しては読み、無理してDVDを買っては、それについている特典映像を観た。
どういう事情があるのか知らないが、あるインタビューによると、「新海誠」はロンドンに留学するらしい。しばらくしてから「新海誠」のホームページを見ると、なぜか中東で大学生をしていた。
帰国してから「新海誠」は、今までとは全く違う作風のアニメーションを作り始めた。私はそのポスターを見た。その瞬間に「まずい!」と思った。
私のポスター勘はよく当たる。
やはり、その映画は不評だった。
口うるさい映画好きや、アニメファンからも叩かれた。「グロテスクなパッチワーク」なんて書いている人もいた。私もその作品は見ていない。
それから暫く、「新海誠」はCMやテレビゲームのオープニングムービーを作っていた。もしかしたら経済的に苦しかったのかもしれない。
もう映画は作らないのではないか、私がそう思っていた矢先、「新海誠」の新作が公開された。
「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
返歌
「鳴る神の 少し響みて 降らずとも我(われ)は留らむ 妹(いも)し留めば」
万葉集に載せられたこの一組の歌をもとに作られたアニメーション映画が、「言の葉の庭」である。
もともと、映像美に定評のあった「新海誠」がその技術を究極まで高めたのがこの作品だ。私はそのトレーラーをYoutubeで観た。PCのディスプレイから、水気を含んだ風が吹き出してくるような錯覚に襲われた。呆れと驚嘆が入り混じったため息が私の口から洩れた。いまでも世界一美しいアニメだと思っている。
多分、私が映画をブルーレイで初めて見た作品がこれだったかもしれない。「新海誠」は戻ってきた。もとの作風に戻ってきた。
私は喜悦した。
しかし、一つ変化に気が付いた。今までの「新海誠」作品において、主人公は、ただ運命を嘆いて彷徨うだけの男だった。ところが「言の葉の庭」では、愛する女性のために、喧嘩をすることも辞さない男に代わっていた。
おそらく、「新海誠」の私生活に何かあったのだろう。結婚したか、子供ができたか、会社を作ったか、何か他人の生活を背負うような立場に就いたのかもしれない。
「君の名は。」はまず、トレーラーで観た。私が知っている「新海誠」作品とは変わりながらも変わっていない、と私は感じた。
実際は分からない。
私は「君の名は。」を観ていないし、これから観る気もないからだ。
「君の名は。」の興行収入は信じられないほどの金額まで到達した。
まるで種子島から打ち上げられたロケットのようだった。
私は茫然としてそのロケットを地上から見上げていた。
私は今日買った特典付きブルーレイの「君の名は。」を開封もせずに、クローゼットの中にしまっておくつもりだ。
ただ、私が『ちゃんと幸せになれた』なら愛する人と共に見るかもしれない。
それまでは、こう言うしかない。
さよなら、「新海誠」
「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)(早期購入特典:特製フィルムしおり付き)
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2017/07/26
- メディア: Blu-ray
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